長い睫毛に縁取られた朽葉色の瞳が、光るモニターに並んだ文字列を追っている。左から右、左から右へと規則的に動く瞳をじっと見つめていると「…少し近すぎるのではないか」といつもの皮肉が飛んできた。
「あっ、ごめんなさい」
慌てて革張りのシートに座り直せば、「もう少しで顔に穴があくところだ」と、彼はこちらを見もせずに薄い笑みを浮かべる。とん、と長い指先が腕時計の文字盤に触れると途端にモニターは消え去り、車内は元の闇色に包まれた。
別に穴なんか空かないけど!といつもなら反論する所だが、なにせ今日の主役は彼だ。仕方なく唇だけ尖らせていたら、「こら、むくれるな」と横から優しく頭を小突かれた。
今日は、臨空市内にあるホテルで医学会主催の式典パーティーが行われる日だ。先日発表した論文がとある重鎮の目に留まり、私の主治医である彼――レイ先生は、外科医なら誰もが知っている賞を手に入れる事になった。――パーティーには美しい花が欠かせない。パートナーとして招待された私は、彼のために用意されたされた専用ハイヤーで彼と共に会場に向かっている最中なのだ。
バレンタインの時期ということもあり、ホテルへと続く大通りには赤やピンクの装飾が並んでいる。どの店もカップルで混みあっており、腕を組んで歩く彼らを微笑ましく思いながら、私は隣に座る冷血漢を睨んだ。
「そんなに何度も原稿を確認しなくたって大丈夫だよ。レイ先生が喋るならどんなスピーチだって会場は拍手喝采だから」
パチパチパチ!と大袈裟な身振りで拍手して見せれば、レイ先生は「お前、褒めていないだろう」と呆れたように言う。
「以前も言ったが、別にスピーチに緊張しているわけじゃない」
「じゃあどうしてずーっと難しい顔してるの?せっかオシャレしたパートナーをほっぽってまで」
「別にほっぽってはいない。車に乗る時はちゃんと手を取ってエスコートしただろう」
「そんなんじゃ足りないって言ってるの!学会主催のパーティーだなんて、私にとっては完全に未知なる領域なんだよ?招待に応じてくれた優しいパートナーを少しは褒めたらどうなの?」
「よく似合っているし、そのドレスを選んだ男を褒め讃えたいくらいだ。「よくあのお転婆ハンターを美しい淑女に仕立ててくれた」とな」
もうっ!と私が拳を振りあげれば、彼は易々とその拳を受け止めた。その手を離さないまま「ただ……、少し考えていただけだ」とレイは呟く。
「考えてたって何を?」
「それをお前が知る必要は無い」
「教えてよ!でないとさっきの原稿データ、今すぐ消してやるんだから」
そう言って腕時計型デバイスに手を伸ばせば、彼は慌てたように「やめろ」と腕を引く。「なら、ちゃんと教えて」と凄むと、彼はやっと重い口を開いた。
「……これから会う人達に、お前を何と紹介すべきかと悩んでいたんだ」
何を言い出すのかと思えば。彼の言葉に拍子抜けした私は、「なぁんだそんなこと?」とつい軽口を言ってしまう。
「そんなのいくらでも言えるじゃない。古くからの友人とか、患者兼ハンターとか、」
「本当に?」
「えっ?」
「本当にお前はそれでいいのか?」
「いいのか、って……」
「自分が選んだドレスを着せているのに?」
その言葉に、私は思わず次の言葉に詰まる。数日前、同僚のモモコに言われたばかりなのだ。
“男性からドレスを送ってもらったの?!いい?、その日は絶対に気を抜いちゃ駄目だよ!いつもより綺麗にお化粧して、下着も新しいのを下ろさなくちゃ...!”
“メイクはともかく、どうして下着まで……?”
“わっかんないの!?男性が女性にドレスを送る意味はねぇ、...…――”
「聞いているのか」
パチン、と目の前で指を弾かれ、私はやっと我に返る。端正な顔が、怪訝な様子で私の顔を覗き込んでいた。
“男性が女性にドレスを送る意味はねぇ、そのドレスを脱がすためなのよ!”
親友の言葉の先を思い出し、途端に身体が熱くなる。普段はメスを握る彼の手がドレスのチャックを下げる様をまざまざと想像し、握られた手首から思わず目を逸らした。
「そ、それは……。レイ先生に任せるよ!なんと言っても、今日の主役は貴方なんだし……!」
「では、言っていいんだな。恋人だと」
「っ、天下のレイ大先生がそう望むなら私は構わないよ?!潜入捜査で演技するのは慣れてるし、恋人役くらい簡単簡単!」
「……。」
「腕とか組んだ方がいいのかな!?名前も“レイ”って呼び捨てにした方がそれっぽい?!」
「わかったから、そのお喋りな口を少しだけ閉じてくれないか」
そう言うなり、レイの大きな手が私の両目を塞ぐ。驚いて思わず口を噤むと、次の瞬間には唇が重ねられていた。
時間にすると二〜三秒だろうか、触れ合うだけのキスが終わり、私は呆気に取られたままレイを見つめる。
「お前の演技力には最初から期待していない」
目隠しを外したレイ先生が、診察時と同じように真剣な顔付きで言う。
「今からお前は正式に俺の恋人だ。だからいつも通り、俺の隣で笑っていてくれればそれでいい」
掴まれたままの手に、ちゅっと音を立てて口付けが落とされる。
「わかったか?」
「……お医者さんの言うことに逆らうと後が怖いからなぁ」
「賢い患者は嫌いじゃないぞ」
そう言って笑うなり、再び私の唇に彼の薄い唇が重ねられる。「綺麗だ、」。耳元で囁かれた言葉に心臓がきゅんと甘く疼くのを感じた。
「やだ!前に運転手さんいるのにキスしちゃったじゃない!恥ずかし〜!」
「この車は最新AI搭載の自動運転だ。運転手はいない」
「……。」
「運転手付きが良かったか?天下の臨空ハンター殿にそんな趣味があったとはな」
「〜〜〜!もう一生貴方とはキスしないから!」