「今日の放課後、渡したい物があるんだけど」
そう言って彼女が俺の袖を引いたのは、もうそろそろ午後の授業も始まろうかという時分での事だった。
既に予鈴が鳴り響いた屋上には殆ど人影も無く、ざらついたコンクリートに未だ腰を下ろしているのは俺との二人だけだ。
「あぁ、わかった」
そう声を返しながらそよ風に遊んでいた髪を耳に掛けてやれば、はぱっと上体を引いた。もとから赤い頬をさらに赤く染めながら、慌てたように辺りをキョロキョロと見回す。
「学校であんまりベタベタ触らないでよ……!誰かに見られたらどうするの?」
「別にどうもしない。それに、そもそも先に触ってきたのはの方だろう?」
「私が触ったのはシャツだけだもん!」
「俺だって触ったのは髪だけだ」
ああ言えばこう言う俺に、はムッとその艶やかな唇を尖らせる。
“友達にからかわれるのが嫌だから”。
そんな理由で、俺たち二人の関係は余程仲の良い友人以外には伏せられたままだ。
別に隠す必要もない、公表してしまえばイイ虫除けになると考えているのはどうやら俺だけのようで、二年付き合った今もなお、俺たちは学校では幼馴染という設定を突き通している。
誰もいないとは言え、その唇にここでキスしてやったら、彼女はどんな顔をするだろう。性懲りも無くそんな事を考えてしまう自分に、思わず苦笑いが零れた。
俺はこの幼馴染殿の事が、自分でも呆れるほど好きなのだ。
「それにしてもどうして放課後なんだ?登下校だって一緒だし、なんならつい今だって一緒に弁当を食べたのに」
「物事にはタイミングっていうものがあるの」
「ふむ。何を貰えるのか気になるな、ヒントはないのか?」
「せっかちな男は嫌われちゃいますよ〜」
「そのせっかちな男と付き合ってるのは何処の誰なんだろうな」
そう軽口を返せば、「うるさいなぁ!ほら、いい加減教室行かないと遅刻になっちゃうよ!」といつもは俺が彼女に言う言葉を、今日に限っては彼女が口にする。ぐいぐいと腕を引っ張るを逆に引き寄せ、ぎゅっと腕の中に閉じ込めた。
「ちょっ、ちょっと!やめてったら!」
じたばたと暴れる恋人を難なく押さえ込みながら、俺は早く放課後にならないものかと数時間後の未来へ想いを馳せる。
校内へと続く扉を開けたら、俺たちはまたただの幼馴染に戻ってしまう。二人が恋人でいられる時間、その一分一秒が今はただ惜しかった。
▽
最早汗さえ出なくなるような稽古を終えて俺が向かった先は、夕日の差し込む家庭科室だった。ガラガラと音を立てて引き戸を開ければ、頬杖を突いて待っていたがぱっと顔を上げる。
その子犬のような表情に、先ほどまでの稽古で昂っていた心臓がキュンと甘く疼いた。そんな顔は反則だ。平静を装いながら「待たせて悪かった」とバッグを下ろした俺に、は「ううん、練習お疲れ様」と嬉しそうに駆け寄ってきた。
「さ、杏寿郎は座って座って」
「?」
意味もわからぬまま、四角い木製の椅子に座らせられる。一体何が始まるというのだろう。不思議に思いながら愛しい恋人を見つめていると、目の前にフォークと皿が用意された。
「はい、これ」
そう言って差し出された箱に、杏寿郎は目を見張る。上に取っ手のついた白い箱は、ケーキなどの洋菓子を入れるための物だ。
「開けていいのか?」
「ダメって言ったら開けないの?」
「いや、開ける」
壊れ物を扱うようにそっと箱を開ければ、中にはお世辞にも綺麗とは言えない小さなホールケーキが入っている。
うねった生クリームにあちこち傾いた苺、チョコレート製の茶色いプレートには“Happy Brthday”の文字が描かれている。
「これは……」
「私が作ったの。料理部の友達に「彼氏にプレゼントしたいから」ってレシピを聞いて、先生にも「家庭科室使わせてください!」って無理言って頼み込んだんだ。家でも何回か練習したんだよ。ほら、」
そう言って、は制服のポケットからスマートフォンを取り出す。確かに、写真アプリには失敗作と思われるケーキがいくつも並んでいた。
「ブサイクなケーキでごめんね。でも、味は大丈夫だと思うから−−」
「違う」
「え?」
「プレートの文字。“birthday”のiの字が抜けてる」
「えっ!?うそでしょ!?」
真っ青になってケーキを覗き込んだが、プレートの文字を目で追う。一回、二回、三回。その大きな瞳が左から右へと動き、信じられないというように口元を両手で覆った。
「や、やだ、やだやだ〜〜〜マジ馬鹿じゃん私……!」
そんな否定的な言葉と共に、覆った口元から小さく嗚咽が漏れる。今にもその場に崩れ落ちそうな彼女に、俺は慌てて駆け寄った。
「す、すまない!折角作ってくれたのに粗探しするような真似をしてしまった!」
「ち、違うの……!杏寿郎が悪いんじゃなくて……!チョコペンで文字書くの結構難しくて……!私、ホント、いっぱいいっぱいで……!」
「分かっているとも!実際、写真の方はちゃんと書けているじゃないか!誰にでもあるケアレスミスだ!だからあまり自分を−−!」
「でも、他の文字ならともかく、アイが抜けてるのって、やっぱりあんま良くないっていうか……!」
ぐずぐずと鼻を鳴らすの涙を、俺は指先で何度も拭う。
「、こっちを見ろ」
泣き腫らした赤い瞳と視線が合うのを待つ。泣かないで欲しい。好きで好きで仕方の無い君に、いつだって笑っていて欲しい。そう思いながら、はっきりとした口調で語りかける。
「これを作ってくれた時、ちゃんと愛情を込めて作ってくれたんだろう?一生懸命、何度も何度も試行錯誤を重ねて」
「……う、うん」
「なら何も問題ない。iの字がなくても、の愛がちゃんと篭ってるなら、俺はそれでいいんだ」
「でも、プレート以外も結局ブサイクだし……」
「見た目が綺麗なケーキは世の中にいくらでもある。でも、このケーキは世界に一つだけだ」
「それって褒めてるの?けなしてるの?」
「勿論、褒めているに決まっている。だからそろそろ、その愛の篭ったケーキを食べさせてくれないか?」
そう言って、俺は机の上のフォークをの細い指に握らせる。自身の不甲斐なさに打ちのめされながらも、はゆっくりとケーキへ腕を伸ばした。白いクリームと真っ赤な苺が近付いてくる。
「……あーん、して」
未だに震えを残した彼女の声音に、俺は大きく口を開ける。ぱくり。フォークに乗っていたぶんを丸々頬張ると、口の中に幸せな甘さが広がった。不安げに眉を寄せるにちゅっとキスを落とせば、彼女の口に小さな白髭が生える。
「今まで食べたケーキの中で一番美味い」
「いいよ、そんな無理してお世辞言わなくても」
「お世辞じゃない、本心だ。好きだ、」
「はいはい」
「プレゼントありがとう」
「どういたしまして。……お誕生日おめでとう、杏寿郎」
「もっと欲しいな」と囁けば、彼女は再びケーキへと手を伸ばす。
「そっちじゃなくて」と、またその唇に口付けを落とした。
Happy Birthday!